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【ネタバレ注意】週刊少年ジャンプを中心に、ふれた作品の感想をたくわえるブログ。

キャッチャー・イン・ザ・ライ

(訳)村上春樹、2006、白水社
〈原作:"The Catcher in the Rye"、J.D.サリンジャー、1951年〉
ライ麦畑でつかまえて』という名前だけは何度も聞いたことがあり、映画『天気の子』にも本が登場していたので、気になって読んでみました。

ライ麦畑でつかまえて』が『キャッチャー・イン・ザ・ライ』に生まれ変わるって普通は逆では。 まず、本を開いて文字サイズを見た時に、意外と分量が多いなと思った。

村上春樹の作品は2、3作品しか読んだことないけれど、冒頭だけで納得できる。なぜ。口語っぽいから? ずっと一人語りしているけれど、自分が話し相手になっている感じがある。 村上春樹のテイストじゃなかったらまた印象が変わるのだろうか。 揶揄やネタではない「やれやれ」って久々に見た気がするぞ。しかも口癖かよ。

タイトルの「つかまえて」と帯の「青春文学」から、ボーイミーツガール的な物語だと勝手に思っていた。 家を出て最初に出会ったのはクラスメイトの母親。どういうこっちゃ。その後も修道士や幼馴染、娼婦、飲み屋で一緒になった人など女性はたくさん出てくるが、関係はその場面きり。唯一ジェーンの名前を最初から最後まで口に出しているが、ついに登場することはなかった。中盤まではお坊ちゃんのわけあり帰省みたいな感じ。

サリーに対してまくしたてる様子は、ジェーンの話をするときと同じで目の前が見えていないようで痛々しい。 「怒鳴ってない」とは言っているが、主観だからどうだろう。虚言癖というか、調子がいいように話を作っていくのが基本ムーブ。 自分は知性的だと思っている痛々しさもある。やっぱり大人になれない話だろうか。 サリーやルースとの会話辺りから、未熟さが目に余るようになってきた。腹に一発撃ち込まれた妄想も中二病的なものかな。 実家に侵入するところはサスペンス。

半分も過ぎてやっと「ライ麦畑」が出てきた。唄の名前として。そしてフィービーとの会話でタイトルの由来が判明。 思ってたんと違う。 邦題では「つかまえて」だけど、原題は「Catcher」だもんな。ライ麦畑のキャッチャー。捕まえられる側ではなくて捕まえる側。 「つかまえて(よ)」じゃなくて「つかまえて、~~」なのかな。

ミスタ・アントリーニの言葉はなかなか刺さる。落下傾向。落ちていく人は落ち続けるだけ。恐ろしい。 ホールデンのうまく説明できない様や何がいちばん興味あるかは始めてみないと分からない理論も分かる。 集中できなくなるのは都合の悪い話だから?それとも単に眠気? まず勉強しなさい、と。 人の話を聞かないで一人になって勝手に追い詰められていく。誰も思考を修正する人はいない。 家族だけは会いたいと言ってくれると確信してるのもちょっときつい。 フィービーに「黙れ」と言ったところで限界。 終盤の余裕がなくなってくる感じはもう見てられなかった。 しかし、随所に感じた痛々しさはたぶん同属嫌悪的なもの。 自分も似たような、傍から見ると少し引くような言動はあるはずで、それから目を背けてはいけないという気になる。

最後の幸福感は理解できないまま終わってしまった。また時間をおいて読もう。

(終盤に「五十年くらい前、僕がまだ小さな子どもだったとき」と出てきたけどどういうこと?「僕」は17歳くらいのイメージで読んでた。帯に「永遠に16歳でありつづける」と書いてあるのはつまり精神年齢ってこと?根幹に関わるからググってみたが特に引っかからないので、おそらく何かしらの読み違いをしてる。)